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旧き友への杯
「マスター、ギムレット。ライムジュースは少なめに、ドライで頼む」
「かしこまりました」
古びてはいるものの、隅々まで掃除が行き届いてぱりっとした店内。
実直にシェーカーを振る、老マスターの無駄のない動きを見るとでもなく見ていると、心が安らぐ。
バーの扉が、少し勢いをつけて開かれた。
「すまん、伊出。遅くなった」
少し急ぎ足で来たのか、ハンカチで額の汗をぬぐいながら、カウンターの隣席に座る相沢。
「気にするな。こっちも先に軽く飲んでいたところだ」
「そうか、なにしろお前が帰った後、松田のうっかりミスが発覚してな──おっと、仕事の話はここまでにするか。マスター、俺はラスティ・ネイルで」
やがて、きいんと冷えたグラスが二人の前に並んだ。
相沢が、グラスを目の高さまで持ち上げる。
「それじゃ、乾杯!」
「──何に乾杯なんだ?」
涼しい音を立てて互いのグラスを合わせながら、伊出は真面目な顔で問いかけた。
「え……そ、そうだな。じゃあまずは、俺達が今日も生きていることに、とでも……どうだ?」
「確かに、それは祝ってもいい事柄だ」
ギムレットのグラスに口をつけると、伊出はうなずいた。
「こうやって相沢と飲むのも、久しぶりだしな」
「すまんな、うちも最近物入りなもんで、カミさんが小遣いを上げてくれないんだよ……」
「娘さんはもう、中学生だったけ?」
「上のやつが来年で高校生だ。まったく最近、どんどん女っぽくなってきちまって、焦るよ」
相沢は、深々とため息をついた。
「……お前、今からそんな調子だったら、家に彼氏を連れてこられたとか、結婚するとかそういう話になったらパニックを起こすんじゃないか?
「い、言うなよ伊出! 想像しただけで悲しくなるじゃないか!」
真剣に落ち込む相沢を横目に、ギムレットを飲み干す伊出。
「お前の娘さん溺愛っぷりにも乾杯だな。マスター、スレッジ・ハンマー」
「伊出!!!」
勢い良く自分のグラスを干すと、今度は相沢が逆襲に出た。
「お前もなぁ、結婚して俺みたいなマイホーム主義者になれとは言わんが、せめて……こう、性格のいい彼女とデート☆とか、そういうイベントはないのか?」
「それを言われると、返す言葉がないな……」
新しいグラスを前に、やや遠い目になる伊出。
「今だって、何を頼んだ? スレッジ・ハンマー? なんだよその色気のなさは! 男二人飲みとはいえ、寒すぎる内容じゃないか、ええ?」
「飲みたいものを頼んで、何が悪い」
「あのな、伊出。お前は昔からそういうところが固すぎるよ。まさか、前にちょっといい感じだったあの子とも、そういうノリだったのか?」
「…………」
なおも勢い良く、相沢は言葉を繰り出した。
「なあ、伊出のそんな糞真面目で頑固なところは、俺はいいと思うんだ。現に、ヨツバ事件の時にはそのおかげで助かった。俺が今のポジションに出世したのも、あの時のお前のバックアップなしでは実現しなかっただろうし。だから、なんていうか──伊出には、もっと例えば……その、いい女でもいればな、と思ったりもする」
「……相沢」
グラスに輝く水滴を見つめながら、伊出は苦笑した。
「俺は別に、そんな幸せを祈られるような奴じゃない。Lの元から先に去ったのも俺のわがままなんだし、やりたいようにやってきただけだ。気にするな」
「でもなぁ……あ、グラス空いちまったな。どうする?」
その時、カウンターの中から二つのグラスが、すっと差し出された。
「──これは、お二人へ私からのサービスです。どうぞ」
鮮やかな、赤茶色の液体が満たされたグラス。
相沢と伊出は目を見合すと、黙って同時にグラスに口をつけた。
「……うまいな」
「ああ。マスター、これは何ていうカクテル?」
何十年もカウンターから様々な人間模様を見つめてきたであろう老マスターは、にこやかに答えた。
「オールド・パル──『旧き友』『懐かしき友人』というような意味があります。本来は食前酒向きなのですが、仲の良いお二人に、と思いまして」
「こいつは一本取られたな……なあ、伊出」
「まったくだ」
二人は、自然に二回目の乾杯を交わした。グラスの触れあう透きとおった音色が、他に誰もいない店内にこだまする。
「相沢。俺は今に満足しているんだ。仕事はやりがいがあるし、美味い酒が一緒に飲める友人がいる。そして何より──最初のお前の言葉だが、こうして今日も生きている。これ以上、求めたくはない」
「──そうか」
相沢は、少し残念そうな表情でグラスを傾けた。カクテルの水面が、穏やかに波打つ。
「それに、最近新しい趣味も増えたしな。非番の日もそれなりに、やることはあるんだよ」
「へえ、意外だな。お前の趣味って、読書くらいだっただろ? 一体何を始めたんだ?」
「まあ、俳句、なんだが……」
危うく、相沢の手からグラスが滑り落ちるところだった。カクテルの飛沫が少量、カウンターに降りかかる。
「──はははは俳句!? なんだよそのまたしても爺臭い趣味は!」
「アメリカに、レスターっていう捜査官がいただろ。なんかあいつ、日本文学に興味があるって言うんで、たまにメールでやり取りしてたんだが──こないだ誘われて、俳句のフォーラムに入ったら、これがなかなか奥深くてなぁ」
「おい、レスターって、あの大柄でえらくゴツい男だろ? あっちの人間とメール友達になるなら、そこはハル=リドナーとかを選ぶだろ、普通は!」
カウンターを拭いながら、憮然とした顔でうめく相沢。
「変か?」
「いや、もう諦めた。いいよ、お前はお前のペースで生きていけばいいさ……」
相沢は内ポケットの部分に手を当て、包みの感触を確かめ直した。
捜査本部メンバー一同から、伊出へのプレゼント。中身は万年筆だった。最初の乾杯で今日、すなわち伊出の誕生日を祝うつもりだったのだが、当の本人がそんなことなどすっかり忘れているらしい。
──来年は、彼女から何か貰えよ、って言うつもりだったんだけどな。こりゃあ、それ以前の問題だなぁ……。
わずかにカクテルが残ったグラスを小さく掲げ、相沢はこの限りなく誠実で、かつ不器用な友人を祝福したのだった。
The End.
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