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永遠分の一枚
筆先を慎重に拭うと、完成寸前の絵を見直す。
紙が毛羽立つほどに何回も何回も薄い色を塗り重ねて、表現したグラデーション。夕刻へ移り変わる前の一瞬の、あの空。一番大好きな色。
仕上げをするため再び筆を握る。何百枚と描いてきても、この瞬間の緊張は変わらなかった。ゆっくり深呼吸を繰り返す。大丈夫、大丈夫……。
息を吐き終えると、私は素早く手を動かした。白の絵の具でハイライトをぴっ、ぴっ、と画面に散りばめる。カップの縁取りに、建物の看板に、そして人物の目に。
数十秒後に、絵は完成した。そう、完成したのだ。いつもならここで机の上の電話を取り、内線で別室のマネージャーに作品が出来たことを伝える。数時間後、完璧に乾いたそれは、そのままマネージャーの手に渡り、馴染みの出版社や画廊に直行する。
──でも今回は違う。
私はリンダ。職業は、ここまでを読んでいただければお分かりのように、画家。
空想上の植物と生物を組み合わせた最初の画集は、「生物の進化を、かつてなくエレガントに予言してみせた」「芸術的であると同時に、博物学的にも興味深いものがある」と、各界からの絶賛を浴び、たちまちベストセラーになった。作者のプロフィールが、ペンネームしか明かされていない──というのも、さらに謎を呼ぶうまい売り出し方として話題になったものだ。
しかし「売るための」秘密主義という下世話な憶測は、まったく違っていた。
私は実は、当時まだ十代後半の小娘だったのだ。メディアは「若い」というだけで、ジャンルがなんであろうが無差別に飛びつく習性がある。もし素直に全てをさらけ出していたら、「十七歳の天才画家現る!」とか「少女が描いた驚くべき世界!」なんて、陳腐なコピーをつけて紹介されていたに違いない。「作品」はそういったフィルターを取り除いて、あの世界をそのまま観賞して欲しかった。その点で、私とマネージャーの意見は幸運にもぴったり一致した。以来、私は覆面作家ならぬ「覆面の画家」ということで創作活動を続けている。もちろん、メディアの取材はおろか、出版関係者ともごくごく最小限の範囲でしか会わない。
まして。
壁の一角をじっと見つめた。コルクボードの上に、大小さまざまの紙片がピンで貼りつけてある。こうしてラフを並べておいて、アイディアを練りこむのが好きなのだ。ところどころに躍っているカラフルなポストイットは、マネージャーからの伝言メモだった。
ごく平凡な、薄いイエローのポストイットをはがす。さっきと同じように深呼吸してから、電話機のボタンをプッシュした。メモに並んだ数列どおりに。マネージャーでも、友人でもない相手に直接電話するのなんて何年ぶりだろう?
私は、絵の完成を告げた。
そして、二日後にこのアトリエでお待ちしています──と。
***
美人だわ──。
月並みな表現だったが、彼女の第一印象はそれ以外ありえなかった。左右対称に近い整った顔立ち。重くなりすぎないよう、肩より少し長いところで綺麗にカットされたブロンドヘアー。シンプルだが仕立ての良い黒いスーツが、くっきりした目鼻を引き立たせている。年齢は、私より何歳か上だろうか。こういう人の似顔絵って、特徴が出しづらくてかえって描きづらいのよね……と反射的に考えてしまって、昔を一瞬思い出す。
「お待ちしていました」
「はじめまして。ハル=リドナーです」彼女はにっこり笑うと、優雅な動作で右手を差し出した。それでようやくあることを思い出してはっとなる。間が抜けてるったらありゃしない!
「ごめんなさい、リドナーさん。さっきまでまた絵を描いていたので、その……」
顔が赤らむのがわかる。自分の右手を顔のところで振ってみせた。指のあちこちに、まだべたべたと絵の具がくっついたままの手を。
「いえ、あなたがつけてくれる絵の具なら、光栄よ」
彼女は、少しもじもじしながら続きをつぶやいた。
「私、実はもともとあなたの大ファンで……画集ももちろん全部本棚の一番いい場所に並べてあるし、雑誌の表紙イラストも全部コレクションしているの」
一瞬の間の後、私達二人は目を合わせたまま笑い出していた。
涙が出そうになるほど笑ってから、ようやく「どうぞこちらでお待ちください」と、私はアトリエの隅にあるソファーとテーブルを指差した。
***
「美味しいわ!リンダ、あなた、スコーン作りの天才ね!」
たっぷりとクロテッド・クリームをのせた焼きたてのスコーンを頬張ると、真っ白な歯を見せて微笑むハル。まだ対面から半時間くらいしか経っていないのに、私達はファーストネームで呼び合っていた。もっとも、私の「リンダ」は、本名ではない。ずっと前から使っている呼び名で、現在のペンネームにもなっている──もう一つの大事な名前だった。
「褒めてもらえると嬉しいわ。普段は一人で篭もっていることが多くて、なかなか他の人にご馳走する機会がないものだから」
ハルのカップに、新しく紅茶を注ぐ。
「まさか、アメリカでこんなに素晴らしいアフタヌーンティーが楽しめるなんて。英国には時々行くのだけれど、いつも仕事、仕事で……」
紅茶にミルクを混ぜながら、ハルは「あら、愚痴になっちゃったわ。ごめんなさい」と苦笑した。
ハル=リドナー。彼女の「仕事」が大変なものであろうことは、大体予想がついた。世間の事情に疎い私でも、あの事件のことなら一般人より「知りえる」立場にいたので、なおさらのこと。
「日本で……あのニュース、ひどいものだったわね。怖かった。また、何年か前みたいな時代に逆戻りしちゃうんじゃないかって」
「ええ。でも、全て終わったわ……このお茶も、いい香り」ハルは、遠くを見るような表情でそっと言った。
「それ、今日封を切ったばかりのキームンなの。ミルクティーならこれが一番好き」
私達は、固有名詞は何一つ口にしなかった。「あの」といえばあの大量殺人鬼の事件に決まっていたし、それについて話し合うことが今回の目的じゃないから。
ハルは美術方面に堪能で、おしゃべりしていて楽しかった。さきほど、私の大ファンだと言ったことも本当だと、すぐにわかった。でも、たまに私の正体を知ってしまった人にあるように、サインをねだったり、プライベートについてあれこれ聞きたがることはなかった。「リンダ」の特製ポストカードが当たる懸賞に応募するために、スポンサーのお菓子を買いすぎて太っちゃったこともあるのよ──なんて、愉快なエピソードを聞かせてくれたくらいで。
お茶を飲み終えた頃、私はすっかりくつろいだ気分になっていた。
「ハル、あなたみたいなお姉さんがいればよかったわ」
「それはますます光栄ね。私は一人っ子だったから」にっこり笑うハル。
「私のこと……あなたのお仕事なら、かなり調べてきてるんでしょう?」
そう切りこむと、ハルは少し逡巡していたようだったが、黙ってうなずいた。これは一種のテストだった。ここで彼女がのらくらはぐらかしたりするようだったら、お茶の時間を終わりにして、アトリエからも追い出していただろう。ハルがあえて見せた正直さには、ますます好感が持てた。
「なら、より話が早いわ。そろそろ本題に入りましょう」
私は、最近描いた絵の束の中から、一枚を取り出すとテーブルの上にそっと広げた。
一昨日に描き上げた、あの──
「お約束の、絵です」
ハルは、長い時間──とてもとても長い時間、引きこまれたように絵を見つめていた。
そして、一言だけつぶやいた。
「もう──叶わないのね」
そう、これはもう、生きている私達が見ることは叶わない光景。
私は自らの記憶を元に、かつてあったあの一瞬を描き上げた。しかし、世の中はうつろう。絵の登場人物の幾人かは、もう会うことすら叶わない──夢の中か、この絵の中でしか。
「ありがとう、ハル」
私は、嗚咽を漏らした。
「ありがとう……この絵を、描かせてくれて」
ワイミーズ・ハウス。私の家族が、ある日突然事故で亡くなって、引き取られた先の──運命の家。
絵の中の人物達は、みな家族のようなものだった。特に、同じ年頃の三人の子供達は、とりわけ印象深かった。それぞれに《ハウス》の中では問題児だったものの、なんとなく放っておけない雰囲気を発していることは共通していた。
「ハル──私には事故の前、弟がいたの。それも、三人も」
亡くなった弟達と、新しく《ハウス》で出会った弟達。でも……。
ネットの「あのキヨミ・タカダ事件の犯人二人、防犯カメラに映っていたらしいぜ!」という流出情報は、物好きなウォッチャーによって証拠の画像も添えられていた。退屈だったはずのネットサーフィンが、私にとってはその日は大津波と化した。ロジャーはずいぶん後になってから、こっそりと一連の事件の断片を教えてくれた。Lを、最後の一人が継いだことも。画集の印税のおかげで、私が《ハウス》の一大援助者にのしあがってしまったのも、秘密の開示に若干関与していたのかもしれない。
それから時はまた流れ、このあいだの日本の事件で──声だけとはいえ、何年かぶりに「彼」と再会した。懐かしさよりも心配のほうがはるかに上回ったが、「彼」はそんな外野の感傷とは無縁だった。いや、無縁のように感じさせていた。
事件はあっさりと解決し、全てはまた終わった。
「あの中継の台詞を聞いて、ようやく思えたの。『あの子』も、ちゃんと大きくなったんだって……」シャツの袖で涙を拭ってから、ようやく私は笑った。記憶の中では、ずっと幼いイメージだった、白いだぶだぶの服を着たあの子。
「相変わらず、一人が好きなことに変わりはありませんけどね」
ハルは肩をすくめてみせた。
「だから、今回の指令には驚きました──まさか、あの人が《ハウス》出身者の誰かに会いたいと言うなんて」
「こっちも驚いたわ。だって今までは、会いたくても、私からはコンタクトする方法がなかったんだもの。ロジャーもルーズなようで、そこだけはさすがにしっかりしているし」
紙の向こう側には、エバーグリーンの庭が広がっていた。
晴れわたった空が夕刻に移り変わるまでの一瞬。
もう一つの、ティータイムの光景。
──「十一月五日。今回、もし連絡がつくようだったら、リンダを連れてきてもらえませんか。久しぶりに彼女に会いたいんです」
ハルに託されたメッセージ。私は卒業以来初めて、英国に戻る。
描くことに決めたのは、ハルから最初に電話が来た後だった。
亡くなった人達のために──また、生きている私達のために。
「これ、喜んでもらえるかしら?」
「大丈夫ですよ。絶対!一番、あの人が欲しがっていたものです」
ハルはまるで、あの子のお母さんのように──ほがらかに笑った。
「リンダ。私からも、『ありがとう』と言わなければならないわ。あの人の家族を、こうして見せてくれて……」
ハルと私は、そっと抱き合った。
「永遠」──この絵につけたタイトル。
絵の中に出されたテーブルには、六人の人物が着いていた。テーブルクロスの白さはまばゆく、銀のポットがよく映えている。
六人のうち、一人の青年はこちらに背を向けていて、顔はよくわからなかった。服装はジーンズに白いシャツというラフなもので、椅子の上に膝を屈めてしゃがんでいるような異様な姿勢と、艶やかな黒い髪が目を惹く。
向かいには、三人の子供──これがまた、ぎょっとするような組み合わせだった。白いパジャマのようなだぶだぶした服を着た、銀髪の子。黒ずくめの金髪おかっぱの子。そして、なぜか手袋をはめ、バイク乗りのようなゴーグルをかけた子。銀髪の子は静かにお茶を飲み、金髪おかっぱの子はスコーンをつつく。ゴーグルの子は、二人を交互に見ているようだった。
最後、端のほうの席には、銀髪に口ひげを蓄えた品格ある眼鏡の老人。隣にも同じくらいの年齢の老人が座っていて、二人で何か話しているようだ。この二人はスーツに身を固めていて、いかにも英国人、といった雰囲気。
私は「彼」に会うだろう。
百合の花束が捧げられた、四つのお墓の前で。
かつて、世界一だったあの名探偵が亡くなった日に。
──永遠に続くことなんてこの世界にはないと、私は既に知っている。「彼」もそうだろう。私達はあまりにも多くのものを失ってきた。
しかし、そこで私は重ねて言うのだ。
「でも、確かにあったのよ。私が夏の日に見た、この光景は現実に存在したの。その『在った』という事実だけは、何があっても、覚えている人がいなくなっても、ずっと変わらない。永遠に変わらないものなのよ──ニア」
永遠と、今という瞬間──アトリエに注ぐ日差しは、二つのティータイムを優しく包みこんでいた。
The End.
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