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永い冬
音もなく、雪だけが降り積もっていた。

この冬一番の寒波が来ているらしい。この分だと、窓ガラスは明日の朝には白く凍りつき、美しい結晶が貼りついているのかもしれない。暖冬続きの昨今だ、きっと子供たちは喜ぶだろう──などとは、この男は一片たりとも思わなかった。

「この年になると、ますます冬が陰鬱だな」

そう愚痴をこぼしながら、男──ロジャー=ラヴィーはデスクの電話を取り上げ、数ヶ所に連絡を入れた。暖房はどこもきちんと動いているのか、夜中に配水管が凍らないよう対策はしてあるのか、もし大雪になった場合の除雪はどうするのか──。

「相変わらず、くだらない仕事ばかりだ」 受話器を置くと、ロジャーは冷えた紅茶をちびちびと飲んだ。自室の壁に飾られた色鮮やかな昆虫標本の数々を眺め直す。このひと時だけ、意識がつかの間冬から離れ、若い頃旅してきた南の島々の光の眩しさを思い返すことができるのだった。

今こうして振り返ると、全ては所有欲だったのかもしれない、とも思えた。

美しい蝶に魅せられるように、素晴らしいあの友人に惹かれた。汲めども尽きることのない才能の泉に人が群がり始めた時、当然のように幾つかのごたごたが起き──ロジャーは、友人と共にこの地へひっそりと移り住んだのだった。


《L》と呼ばれた、あの子供を連れて。

《L》が担っているものを考えると、友人ひとりの手に負えるものではなかった。ロジャーは科学者としての道を断念し、友人と《L》を後ろから支えることにしたのだった。少なくとも、当時はそう思っていた。


「……しかし、キルシュ。君はあまりにも有能すぎた」

ため息をつくと、椅子の背が、ぎいと軋んだ。

友人──キルシュ=ワイミーは、実は自分の手など借りなくとも、十分にやっていける人間だったのである。この《ハウス》を創るにあたって自分に助力を求めたのは、ただ単に、《L》にまつわる一連の機密事項をたまたま知ってしまったのが、キルシュと自分だけだったからにすぎない。 それと、《ハウス》の副管理人というポジションを与えることで、友人の職と安全を確保してやりたい──という思いやりもあったはずだ。あいつは、そういうところにまでやたらと気が回る奴だったから。

電話にもう一度手を伸ばそうと少し立ち上がると、また椅子がぎい、と軋んだ。寒さがいっそう激しくなったようで、指先が冷気で痛む。しわがれた声で、ロジャーは厨房に内線を入れた。


やがてドアが、軽くノックされた。

新しく淹れ直した紅茶が、たっぷりティーポットに入って届いたのだった。

ロジャーは重い腰を上げ、わざわざドアのところに出向いて、スタッフからティーポットを受け取った。机のところまで戻ってからまた紅茶をカップに注ぎ、熱い湯気を吸いこむと少し喉がすっきりしたようだった。


《ハウス》の裏エピソードその三。

(その一は《L》がここの出身だということ。そのニは、《L》を継ぐ者がここから選ばれたということ)

ロジャーの部屋は、本人以外立ち入り禁止なのである。

理由は、自分の執務室になるべく他人が入って欲しくないから、というロジャーの神経質な性格によるものであった。壁一面を囲む本棚の整理も、昆虫標本のケースの埃を払うのも、絨毯に掃除機をかけるのも、ロジャーが自分自身で行っているほどである。


紅茶をまた口に含む。 こうして一人きりでアフタヌーンティーを行うようになってから、もう何年が経ってしまっただろう。

唯一この部屋に喜んで招き入れた友──キルシュは、もういない。《L》と共に、この浮世から去っていってしまった。

そういえば、今日は──と思い出して、ロジャーは深く息をついた。

《L》を継ぐ者たちも、残ったのはたったの一名。白髪で皮肉な物言いをする、あの子だけだった。もうあれさえも、ここを《卒業》してしまったのだ。<

一応自分が補佐役兼連絡役、ということになってはいるものの、この役目も近日元SPKの誰かに譲るつもりだった。しかし《ハウス》の管理人だけは続けなければならないだろう。親友・キルシュとの約束なのだから。

「子供嫌いの私が、まさか子供の世話で一生を終えるとはな……」

紅茶を飲み終えると、机の引き出しを静かに開けた。

昆虫標本のケースが、そっくり一つ納まっていた。ただし、表面のガラス板には、大きなヒビが入った状態で。



「どうしたね、ロジャー?」

「どうもこうもない、私の部屋のあの美しい標本を、誰かが床に落としたんだ! 幸い中身は無事だったからよかったものの、ケースを新しく買いなおさなきゃならん!」

「それは災難だったな」

「部屋に入ったのは《ハウス》の子供らのうちの誰かだ。忌々しい!」

「なぜそれがわかる? もし犯人が私だったらどうするんだい?」

「踏み台が、本棚の前からケースのところに移動していた。問題の品は、私や──キルシュ、君のような大人ならやすやす手が届く高さに飾ってあった。つまり、台を使わなければこれに触れられない者の仕業。となると、子供ということになる」

「なるほど、ロジャー。君もなかなか探偵の素質があるようだな」

「普段、あれほど私の部屋に入るなと言ってあるのに──子供ってやつは、まったく!」

かんかんになって園内の子供達を問い詰め始めたロジャーだったが、《ハウス》の子供達は驚くべきことに、誰一人としてロジャーに犯人を告げようとはしなかったのである。ある一人──ゴーグルをかけた子などは、堂々とこう言ったものだった。

「確かに、俺なら犯人が誰なのか《読む》ことだってできます。でも今は、やりたくないんです。そんな力の使い方は疲れるし、《ハウス》の誰かを吊るし上げるようなことなんてしたくない」

それを聞いてますます激昂するロジャーの横で、キルシュはにっこり笑うと「君は、すでに立派な考え方を身につけているな」と楽しそうに言った。

数十分後、犯人はとてもあっさりと判明した。ちょうどロジャーが自分の部屋の異変に気づいた時刻から、《ハウス》外に逃亡を図っていた子がいたからである。

そう、犯人は、明るい金色の髪をした、あのいたずらっ子だった。

「蝶が綺麗で、じかに触ってみたかったから」と、しれっと告げたその子だったが、キルシュから直々に罰を言い渡されると、よほどショックだったのか泣きべそをかいた。

「──メロ、君が《ハウス》から勝手に外出したことは咎めない。ロジャーの部屋に勝手に入り、ケースを壊したこともだ。最大の問題は、君がその罪を姑息に隠そうとしたことだ。わかるかね?」

普段見せることのない、「ワイミー先生」の厳しい顔に、さすがにあのメロもうなだれていた。

罰は、メロが特大の板チョコレートを買うためにこつこつ貯めていた小銭を、ケースの弁償代としてロジャーに渡すこと。確かにこれは、甘いものに目がなかったメロにとってはこの上ない罰だった。

だが、ロジャーは結局ケースを修理せず、引き出しにしまい込んでしまった。他にもやるべきことが山積みで、そんな暇などなかったのだ。


そして、今となっては──。

窓の外は既に暗い。のろのろと厚いカーテンを閉めて、机に戻ると、あのケースをじっと見つめ直す。

標本のように、過去は変わらない。だが未来なら、なにがしかの希望は残されているのかもしれなかった。《キラ》が再び消滅したこの世界でなら、なおのこと。

引き出しを閉め、ロジャーはまた電話をかけ始めた。《L》のさらなる次世代がいなくとも、《ハウス》を守っていくために。あの悲劇を、繰り返さないために。


ガラスに残された一条の傷跡。

──それが、あの子達の思い出であり、老人への形見なのだった。


The End.
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