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Welcome person's name 《M》
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「私だ、失礼するよ!」
数度のノックの後、またロジャーがずかずかと入ってきた。
「あ、先生。なんでしょう、別に俺は大丈夫ですよ」
──あれから数日。これで今日は通算五回目のロジャー訪問。それほどに俺のことを心配してくれているのか、というと実は違って、ただ単に、副管理人というポジションは案外暇なだけらしい。
静養のおかげで、体は徐々に元の状態に戻っていくのがわかった。同時に、この《ハウス》という新しい場所にも慣れつつある。医療スタッフの教育はよく行き届いており、必要以上に距離を詰めすぎず、完璧なサポートをしてくれている。確かにここは、ロジャーがあれだけ自慢するだけの施設ではあった。
「なんと今回は、スペシャルゲストが──」得意そうなロジャーの声に続いて。
「やあ、マイル=ジーヴァス君」
あの時と同じ声。電話の向こうから、聴こえたものと。
「ワイミーさん!いえ、ワイミー先生!」
「話はロジャーから全て聞いた。君もここに来るなり、色々と苦労したようだね。すまなかった」
ワイミー先生は、そっと俺の手を握った。温かい手だった。
「──今日は、あの約束を果たすために来たよ」
俺は、ずっと目をつぶっていた。視界を覆っていた包帯は、優しく取り去られる。代わりに新しい「何か」が装着され、ぱちりと後ろで止め具がはめられた。
そして、そっと目を開けるとそこには──老人二人の顔。
口ひげを生やした、サンタクロースのように優しげな笑みをたたえた人と、神経質そうにくぼんだ目に眼鏡がちょこんと乗っかっている人。
言うまでもない、ワイミー先生と、ロジャーだった。
「どうだい?」慎重にこちらをのぞきこむワイミー先生。
「お二人の顔も見えます。だけど──」
だけど、今までのように《読む》ことはできなかった。眼をすっぽり覆うレンズが、巧妙にあたりをぼかし、映るものの精緻さを剥ぎ取って平板なものに変化させている。見える。けれど《読め》ない。かなりくらくらするが、今までのように《標識》だけが一方的に飛びこんではこなかった。
「よし、ひとまず成功だ!」
ワイミー先生は、嬉しそうにうなずいた。ロジャーも、満足そうに鼻を鳴らしてみせた。
──『普通の人になりたいんです。人の顔を見ても、《読めない》ようになりたい』
あの時の約束が、まさか、まさか、実現するなんて。
本当に久しぶりに、鏡に向かった。反射的に《読んで》しまうせいで、嫌悪していた自分自身の顔。髪は適当に伸び放題だし、顔色もひどいものだった。
でも、ワイミー先生が「約束」のために作ってくれたもの──茶色いレンズがはめられた、立派なゴーグル──の奥の俺の目は、確かに歓喜に震えていた。
「これから、時間をかけて、君は慣れなさい──君自身であることに、ね」
ゴーグルのレンズは、数ヶ月おきに新しいものに変更するのだとワイミー先生は説明した。本来の視野に、近づいたものへ。そうやって自分の見える世界に慣れていくことで、《読める》能力も徐々に制御できるはずだから、と。
「それから。ロジャー、あれを」
ロジャーは、「こんなものまで用意するなんて、君は意外と暇人だな」とぶつぶつ言いながら、俺の膝にぽんと長細いものを置いた。
一対の黒い皮手袋。
なんでこんなものを……。ワイミー先生にうながされてはめたそれは、手首よりも若干長いものだった。
「あ、これ、中が……」
「気がついたかね?実はこれも私の特製でね」いたずらっぽい笑みを浮かべるワイミー先生。
手袋の内側、指先が当たる部分には、微妙な凹凸がつけられていた。手を少し動かしたり、何かに触ったりするたびに、指に軽い刺激が伝わる。
「君の場合、視覚野が異常に発達している分、他の感覚が少し置いてきぼりにされてしまっている傾向がある。味覚、聴覚、嗅覚は若干で済んでいるが──触覚は、もっと訓練したほうがいい」
まさにその通りだった。見たものを触ろうとすると、「見る」ほうに脳が全部集中してしまい、「触った」感覚が伝わるのには数秒近くかかることさえあった。風呂の熱湯に手をつけてしまった時も、バラのとげに触れてしまった時も。おかげで、手にはいやな傷が耐えなかった。
「その手袋は、人工皮膚に近い感触で、しかも極めて丈夫──私の自慢の新素材だ。これなら、《ハウス》の庭で遊びまわってもそういった怪我を防げるし、しかも触覚への刺激訓練が自然にできる。もちろん替えもたくさん用意してあるから、毎日洗いたてのものを使うようにね」
でも、と俺は思った。
もう一つの約束。
新しく、ノックの音がした。誰かスタッフの一人だろうか。ロジャーが数センチドアを開けて、なにやら叱責している。
「さて、もちろん忘れてはいないよ。約束のもう一つを、今果たそう」
ワイミー先生はウィンクしながら立ち上がると、ロジャーのほうを向いて「ドアを開けたまえ」と静かに言った。渋々、命令に従うロジャー。
そこには──少し照れた笑みを浮かべて、奴が立っていた。
「メロ!」思わず叫んでしまう。
「今日、ここに来てもいいって、園長先生が言ってくれて……久しぶり」
「そうだな、久しぶり。元気だった?」この前の窓から大脱出事件のことを思い出して、俺はにやりと笑った。同じくメロも笑い返した。
「先生、そういえば……」俺は重要な項目を、この際告げておくことにした。
「《呼び名》、あれから決めました。《マット》──M・A・T・Tで、マットにします」
ワイミー先生は微笑んだ。
「マット。ふむ、呼びやすいし、なかなかいいんじゃないかね?ロジャー、名簿にそう書いておいてくれ。この子はこれから《マット》だ」
「ああ、わかった……M・A・T・Tね。というと、メロと同じイニシャルMで──おい、教室の席順も隣同士になるんだが、君、それで構わないのか?メロだぞ?」じろじろとこちらを不躾に見るロジャー。
ゴーグルの効力で、俺は顔をほとんどそらさずに答える。
「いいんです、それで。よろしくな、メロ」
俺たちはしっかり握手を交わした。
「こちらこそ──《マット》!」手袋を通してでも、メロの体温が伝わってくる。さすが、ワイミー先生ご自慢の新素材。
「なあ、ところで、お前のそのゴーグル超かっこいいな!一体どうなってんの?後でかけさせてよ!それからその手袋も!園長先生、俺にはこういうのないんですか?」
「──メロ!園長先生の前だ。静かにしなさい」
ロジャーの叱責にもめげず、最初に出会った時と同じく、質問の嵐を浴びせるメロ。
「さあ、こうして我々四人が揃ったところで、実は隣室にお茶を用意してある。どうだねロジャー、久しぶりにのんびりとアフタヌーンティーを楽しむというのは」
「……うむ、悪くないな」眼鏡をずりあげて、ロジャーがうなずいた。こうして気安く呼び合う二人も、おそらく何十年来の仲なのだろう。
──『友達が、欲しいんです。俺のことを変な目で見ない、平等に扱ってくれる、本当の友達が』
もう一つの約束。
祈りにも似た、叶わないと思っていたこと。
──『君が《ハウス》に来れば、すぐ叶うよ』
ワイミー先生は、真実を告げていたのだ。
今こうして目の前に、メロがいる。
俺にまっすぐに向かってきて、俺のことを心配して夜中に三階まで忍びこんできて、俺のために「ごめん」と泣いてくれる──かけがえのない、友達が。
「なあ、今度すごいこと教えてやるよ」
廊下を歩きながら、こっそり囁きかけるメロ。
「どんなの?」
「実はこの《ハウス》って、お前も絶対名前を知ってるような、すっげえ有名人もいたことがあるらしくてさ──おっと、これ以上はまた今度」
ロジャーは前にこの話題を持ち出した時、「誰かは明かせない」と言っていたが……どうやら住人達の間ではとっくにその正体はバレているらしい。これは「今度」が楽しみになってきた。
そして。
《M》──《Matt》という、新しい俺の物語は、ここから幕を開けるのだった──。
The End.
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