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あの染みは、綺麗に拭い去られていた。

ある人間が倒れ、大量に血を流した痕。

「私にとっての最大の恩人は、あなたかもしれませんね」

後ろからかけられたその台詞に、素直にうなずくことはできなかった。

あの時、「誰かを守りたい」などという考えはかけらもなかった。ただ、自分が死ぬのが怖かっただけだ。

考えてみればいつもそうだ。二〇〇四年十一月五日。世界一の名探偵が椅子から崩れ落ちた瞬間、パニックを起こした頭の中は、「まだ死にたくない」で埋め尽くされ、破裂しそうになった。とにかくまず救急車を呼ぼうとする皆に加わることもできず、ひたすら震え続けていた。

僕は平凡で、弱くて、ずるい人間だ。

「だからこそ、」

白いパジャマの少年は、さきほどと同じことを繰り返した。コンクリートの冷たさをあまり気にもせず、素足のままで床に座り込んでいる。

「だからこそ──あなたが重要なのです。Mr.松田」

そうだ、今日の目的がなんだか知らないが、なるべくさっさと終わらせることにしよう。その前に、気になっていた点を少し修正することにして。

「そこだけ英語で呼ばれると、少し照れますね……松田、でいいです」

「それでは、日本流に呼びましょう──松田、さん。宜しいですね?」

ニアは、非常に珍しいことに笑みを見せた。全然子どもらしくない笑顔だったが──いや、この人の年は「子ども」でもないんだっけな?正確な年齢は知らないけれど、あのメロと年は極端に離れていなかった、という話をちらっと耳にしたことはある。するともう、少なくとも十代後半、大体二十歳近くのゾーンと考えて間違いない。

「あの、他の人は、来てないんですか?」

指定されたこの場所──大黒埠頭YB倉庫。着いてから恐る恐る中を覗きこむと、ニアはたった一人で座っていた。一年前の麻薬取引事件の時には、あちらのメンバーが壁のように、彼の周りを囲んでいたというのに。

「ハルにここまで送ってもらいましたが、先に帰しました。私から連絡があるまで、来ないように言ってあります。一言付け加えておきますが、この倉庫の中には盗聴器やモニターの類もありませんので、監視されているのではないか、という心配はなしにしてください」

「……なんだかずいぶん無用心ですね、Lにしては」

「無理にそう呼ばなくても構いませんよ、松田さん。私のことはニア、と」

ニアは「Lの後継者」──いわば、二代目のL。だけど僕の中のLは、あの奇妙な名探偵、どこか人懐っこくて甘いものに目がない、あの《L》に固定されてしまっていた。

「これは、そちらのほうでまだ誤解があるようなので、この際一緒に説明しておきますが──」

自分の髪をくるくる指に巻きつけながら、話し始めるニア。

「今のLは、私ではありません」

「えっ?」

「SPKのメンバーだった者たちのほとんどと、新しく選抜した人材を加えたチーム。その集合体が、Lです。チームから外部に何かを伝える時に”L”と名乗ることはあっても、Lという人間は存在しません。社名のようなものですね」

「でも……あなたは、ニアは、《L》の後を継いで二代目になったんじゃ……」

あの《M》と《N》の騒動も、元はといえば次の《L》の座を巡ってのものだったはずだ。たった一つしかないメダルを取り合うように。僕がそう思っていたのは間違いだったのか?

「私は、あの人の後を継げるような器ではありません。受け継いだのは、正義という理念。チームとしてのLの構想。これだけです」

「それでも、あなたがチームの代表なんでしょう?堂々と《L》を名乗っても構わないんじゃないですか?」

ニアは首を振った。

「さらに説明が必要なようですね。いいですか、私はリーダーではないんです。Lに属して活動している、単なる一個人にすぎません」

「なら……誰が……」

「そんなもの、決めてどうします?《キラ》事件のことを思い出してください。《L》たった一人が死んだ後の、世界の混乱を。我々は一人一人では《L》の足元にも及びませんが、数が集まり、チームとして機能すれば話は別です。一台のスーパーコンピュータに計算させても、家庭用のパソコンをネットワークで何千何万台と繋げて計算させても、得られる答えは同じ。後者であれば、その中のどれかが故障してもすぐ替えが効く。さて、効率的なのはどちらか……人間はコンピュータと単純に比較できるものではないですし、この理論をそのまま応用したわけでもありませんが、大体そういうようなものだと考えてください」

もっとも、チームのメンバーは最大でも十数人規模ですけれどね、と付け足して、ニアはパジャマに付いていた糸くずを引っ張った。

「結局、あの《L》という個人は、偶然の産物、自然の贈り物だったんです。昔あるプロジェクトで、《天才》と呼ばれるような人間を量産しようとしたことがあったのですが……その結果を知っていますか?」

残念ながら知らない、と短く答えた。

「もう何十年も前の話ですけどね。著名な科学者達に精子ドナーになってもらい、IQが平均よりかなり高いと認定された女性のみが、そのサービスを受ける権利がある──そんな内容だったそうです。しかし、そうして生まれた子供達は、平均すると普通の子供達と変わったところは特にありませんでした。中にはIQが飛びぬけて高い子もいましたが、たまたま、としか言い様がない数です。別のプロジェクトでは、もっと精密かつ非倫理的な”選別”を行ったりもしたそうですが、今回はそこまで話すと長くなりますので……」

ため息をついて、ニアは続けた。

「《L》の子供は存在しません。そして──彼自身のDNA情報も、永遠に公開されないことになっています。個体としての《L》より、チームとしてのL制作を重視して欲しい。簡単なものではありますが、彼が遺したただ一つのメッセージにはそうありました」

「そんなものが、あったなんて……」僕は絶句する。

捜査本部に遺されたパソコンは、ワタリが最期に送ったコマンドによって全てのデータが消去されていた。もしかすると、あのコマンドで、《L》の特別なメッセージが送られるようになっていたのだろうか?
「答えは、半分がイエス、半分がノーですね」僕の疑問に、ニアが淡々と答える。

「私達には、《L》から連絡が──《L》が自分専用のパソコンに触れないまま一定期間を越した場合、彼が”死亡した可能性が高い”という通知が自動的に送られるようになっていました。そして、こちら側の金庫の中には、彼自筆の遺言状があらかじめ用意されていた、というわけです。アナログな手法ですが、これが一番確実ですからね──さて」

前置きが長くなりました、と挟んでから、ゆっくりとニアは口にする。

今日、ここに僕を呼んだ理由を。

「あれからちょうど二年……」

パジャマの前を少しはだけると、ニアは胸元に手を差しこみ、何かを取り出した。

黒い表紙に奇妙な文字が刻印されたノート。見間違いようもない、あの……

「始めましょう──《キラ》事件の、全ての終わりを」

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