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「冗談のように聞こえるかもしれませんが、私は本当にMr.松田のことがうらやましいんですよ」
ニアが繰り返した。
「私には、冗談にしか思えませんが」
松田桃太。
日本の捜査本部の一員ではあったが、能力にも容姿にも目立ったところはなく、ごくごく平凡な……という印象しかハルの中にはなかった。
一年前の麻薬取引事件の時にもその場にいたらしいのだが、あの時はとにかく忙しすぎて、再会の挨拶を交わす暇すらなかったのだし。
「何しろMr.松田は、私よりも長く《L》の側で働いていたのですから」
ニアのその口調は、珍しく切実だった。
「私は今、《L》の業績を研究しています。あの人が何を考え、どのように生き、死んだのか──可能な限りの全てを、知りたいのです」
「Mr.松田に会ったのは……そのためだったんですか」
ニアが突然あの松田と、しかも一対一で、誰の目も届かないあの倉庫で会う、と言い出した時には、彼の正気を疑いさえしたものだ。
そんな行動に何の意味があるのか、と。
しかも、あれから二年も経って。しかし、《L》について聞きたいことがあったのなら……。
「全然違いますよ」
ようやくまとまりかけたハルの推論を、あっさりと否定するニア。
「なら……いえ、申し訳ありません。出過ぎました」
しばらくの間、車内はキューブの摩擦音と、エンジン音だけで満たされていた。松田の車も変わらず走行している。高速道路に入り、想定通り真っ直ぐ都内へと帰るようだ。
その時、ニアが誰に言うとでもなく、ぽつりとつぶやいた。
「今日の行動は……いわば、自分に対するけじめ、です」
ハルは口を挟まない。いや、驚いていたので口を開くさえも忘れていたのだ。ニアがこうやって自分から語り出す事は、極めて稀だったから。
「私がこれから生きていくために。どうしても、やっておきたい事がありました。一つは、行きに説明したとおり、例の偽ノートを燃やす事」
《キラ》事件後、SPK側も日本捜査本部も、「関係する資料は全て抹消」という取り決めがなされた。だがニアは、偽のノートを処分することは拒んでいた。
「《L》は、《キラ》に殺されました。《キラ》の痕跡を完全に世の中から消したいと思いながら、それをすると《L》の生きた証もなくなってしまうような気がしていて。どうしても、何かを取っておきたい……と思ってしまったんです。あの偽ノートが、その象徴でした」
流れてゆく夜景には目も向けず、キューブに向かい合うような姿勢のまま、ニアは語る。
「レスターが突然死んだ後……その思いは、ますます強くなりました。あの事件を、私なりにもう一度、解決したくなったんです。痛みを抱えてもなお、私達はまだ生きていかなくてはならないのですから」
速度を増しながら、手の中で回し続けられるキューブ。
「Mr.松田に立ち会っていただいた事は、正解でした。彼のおかげで、私が抱えていたささやかな疑問にも答えが出ましたし。ノートも今度こそ、処分しました。灰も何も残ってはいません」
深く息を吸うと、ニアは独り語りをこう締めくくった。
「──全て、終わったんです」
「それで……」
ようやくハルがつぶやく。
先ほど、ニアが語ったことは漠然としていて、あまり理解できたとは言い難い。
それでもきっと、何かしらの真実をニアは伝えてくれたのだ。そういう気がしてならなかった。
「ほらそれより、見てくださいよ」
「え?」
「完成しました」
ニアの右手には、あの超絶難易度のルーブックキューブが、全面きっちり色を揃えられて鎮座していた。
「……相変わらず凄いですね」
「こんなの、多少の時間があれば誰でも出来ますけどね。パズルは解くためにあるものですから、誰にでも出来ます。やる気があるかないか、の違いです」
凡人なら見ただけで挫折しそうな品を前に、ニアは至極あっさりと言ってのけた。確かにそうなのだろうが……。
「もうちょっと難しいと思ったんですけどね。この日本限定の六×六×六ルービックキューブ。手数が増えただけで、思ったより物足りない」
またキューブをいじり始めたニア。さきほどよりほぐれた空気の中、ふと思いついた冗談を、ハルはさりげなく口にする。
「まさか、今回の日本行きのもう一つの目的は、そのキューブを手に入れるため……ではないですよね?」
「よくわかりましたね。それは全体のうちの、六十パーセントくらいでしょうか」
「ろ、ろくじゅっぱーせんと、ですか……」
ニアも冗談で返してくれた……のかもしれないが、キューブに向かう目つきを見る限り、今の爆弾発言はある程度本当であるようだった。
答えるハルの口調も思わず上ずってしまう。
補足しておくと、このキューブを手にいれるために早朝からトイショップに並んだのはハルである。
ニアと玩具といえば切っても切れない関係、と仕事の一環として考えてはいたものの──さすがに、ずっこける部分がないと言えば嘘になる。
今のワタリ・ロジャーを並ばせるよりは、ハルを使ったほうが、敬老の精神という観点からもずっとましだとはいえ。
そんなハルの気を知ってか知らずか──ニアはようやく窓のほうを見ると、「Mr.松田とは、ここでお別れですね」とだけ言った。
やや離れて前を走っている松田の車は、高速を降りる車線へ入ったところだった。
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