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「ニア、これからどうしますか?」

「このまま空港までやってください。英国に戻ります。ワタリとは、空港で待ち合わせていますから」

うなずくと、ハルは車をそのまま真っ直ぐ走らせた。

松田の車を追い越した瞬間、一瞬あちらの顔が見え──突然、懐かしい……と思った。

向こうはまったく気づいていないようだった。

今日という奇妙な日のもう一人の登場人物。松田桃太のことはきっとこれからも忘れないだろう。考えてみれば、あの事件から生還した同胞でもあるのだし。

「ハル」

助手席にルービックキューブを投げ入れ、ニアがこちらを見た。

「空港まで、少し眠ります……着いたら、起こしてください」

言うなり、ニアは目を閉じてごろりと寝返りをうった。

その無防備な姿に、SPKで徹夜続きだった時のことを思い出す。

あの頃は「ニアがいつ寝ているのか」というのが、メンバー内のジョークの定番だったものだ。床の上で軽く寝息を立てているのが数回目撃された程度で、ちゃんとベッドに入っていることなど皆無だったから。

こうして、ニアの寝顔を見られるということが、世の中が平穏だという証拠なのかもしれなかった。そして自分にとっての”あの事件”も、今終わったのだと……どこまでも続く高層ビルの灯を眺めながら、ハルは思っていた。

さっきのキューブは、助手席の上で時々不安定に転がっていた。

それだけが少し気になり、片付けようとハルが手を伸ばした時。

”……の宿もわが宿”

カーラジオが、ごく小さくノイズ交じりに流れ始めた。ラジオのスイッチにうっかり触れてしまったらしい。

ニアの瞼が、薄く開かれた。

「申し訳ありません」

スイッチを切ろうとするハル。

「いえ、そのままにしてください。少々何か流れていたほうが、眠りやすいですから」

ニアは、また寝返りを打った。そう言われると切るわけにもいかず、ハルは微妙な表情で運転を続けた。

”花はあるじ鳥は……”

電波に乗って流れてくる歌は、女性歌手のものだった。

懐かしいメロディー。そうだ、確か英国の民謡で……と思っていると、タイミングを合わせたかのように歌詞も英語に切り替わった。どうやら、日本語詞と英語詞の両方を使ったカヴァーらしい。一語一語を限りなくいとおしむような、慈しみに満ちたヴォーカルだった。

「ああ、懐かしいですね。昔、よく……」

目を閉じたままで、ニアがつぶやいた。途切れた言葉を追ってバックミラーを見やると、今度こそニアは眠りについたようだった。

ニアの夢の中に思いを馳せる。

どこまでも続く英国の田園が背景にあって、きっとあの《ハウス》と呼ばれた施設で。皆がティータイムを楽しんでいたりもして、夢の中のニアにあの金髪の少年や、ゴーグルをかけた少年がちょっかいを出していて……。

二度と目にすることの叶わぬ光景なら。

せめて、夢の中だけでも。

カーラジオに合わせて軽くハミングしてみる。幼い子に聞かせる子守唄のように。

都会にしては珍しく晴れた星空の下を、車は優しく走り続けていった。

帰還
-The last dream-
The End.
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