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Observer's name:2章 4/4
「──何を隠そう、私ですよ」

少しおどけた表情で、親指と人差し指で丸をつくって目の高さにぴたりと当てる《L》。「眼鏡」のポーズだ。

「あなたも《読める》んですか?」

「いいえ、マット。あなたのようには《読め》ません。純粋に恐れていただけです──外の世界を」

《L》は立ち上がると、壁に手を伸ばしてライトのスイッチをぱちんと切った。一転して、辺りが闇に包まれる。さっきとは違って何も上映していないので、自分の手先も満足に見えない。

「私が最初に認識した《世界》は、こういうところでした。暗闇というのはあくまで比喩ですが──自分のことも、他人のことも、何も見えていなかったという点ではそれに値しますね」

ワイミーズハウスの住人である俺たちですら、《L》の経歴についてはまったく知らなかった。

元々ここでは、あらゆることに対して秘密主義が貫かれている。入所の時点でそれまでのプロフィールは抹消され、残るのは誕生日と名前くらいなもの。その名前も、フルネームで呼び合うことは禁止され「メロ」とか「ニア」とかいった愛称しか使われることはない。

「五歳の時に私の人生はがらっと変わり」

ぱっと、ライトがつけられたかと思うと──再度の暗転。

「私に関わっていた人もその時に死にました。あっという間に」

またライトのスイッチを入れると、《L》は気だるそうに壁にもたれかかった。何も読み取れない、俺をもってしても何も読み取らせない表情で──刹那、《父母》という《標識》がよぎったような気がしたが、錯覚だったのだろうか?

「ワイミーズハウスへ来た当時、私はまだ恐れていました。現実を直視することを。外の世界へ触れることを。そんな時、引き出しの底に度入りの古いゴーグルを見つけましてね。かけてみるとあたりがぼやけて見えるんですが、何だか意外にそれが心地よくて、時々使っていたんですよ」

「でも、今はかけていませんよね?」

そうですね、と《L》は微笑んだ。

「一度、ゴーグルをかけたまま遊びまわってて、段差に気づかずに、ここの中央階段から転げ落ちたことがあったんですよ。で、あちこちをぶつけて血まみれになるし、ワタリとロジャーには散々叱られまして。以来、ゴーグル禁止令が出てしまったというわけです。あの時頭を打っていなければ、今はもっといい推理ができていたかもしれませんしね」

あの《L》がまだ子供で、しかも階段から落っこちる様子を思い浮かべ、思わず俺も笑ってしまった。

「私は結局《L》として生まれ、おそらく死ぬまでこれを続けるのでしょうが──あなた達、《ハウス》の次世代には、もっと違った人生が歩めるはずだと、私は信じています。《L》は単なる記号、極めて限定され歪められた道筋に過ぎません。《ハウス》の目的の一つは確かに《L》を生み出すことですが──何よりも他に、大切なことはたくさんあるでしょう」

「……それは、例えば何でしょうか?」

「おっと、答えは自分で考えるべきですよ」

それだけ言うと、《L》は立ち上がって伸びをした。

「さて、そろそろロジャーが夕食の時間だと呼びに来るころですが──マット」

ドアに歩み寄りながら、《L》は振り返る。

「あなたは、」

《L》はじっと、俺の目を見つめた。無限の信頼。可能性。《未来》への《標識》を全て秘めた、その目で。

「あなたの人生を、生きるべきなのですから」

次の日の授業は、結局行われることはなかった。

ロジャーの説明によると、急な仕事……おそらく、重大かつ迅速な解決を必要とする極秘の事件のため。《L》は深夜に《ハウス》を経った、ということだった。

ビデオで見せられた事件の解答について、メロとニアはその後ずいぶん長い間議論していたが──《正解》を既に知ってしまっている俺は、何も口を挟まなかった。いや、挟めなかった。自分の頭で考えもせず、ただ《読んだ》ことを喋るのはルールに反する気がしたから。

メロは「マット、何か《読んだ》んなら教えてくれよ」としつこく迫ったりもしたが、「ニアに勝ちたいのなら自分で考えろ」と言うと、それっきり大人しくなってしまったあげく、後日なぜかニアと取っ組み合いの喧嘩になったりしていた。

おそらく、今回の授業の《正解》へたどり着いたのはニアだったのだろう。だがそれは、もう俺にはどうでもいいことだ。

「《ハウス》の目的の一つは確かに《L》を生み出すことですが──何よりも他に、大切なことはたくさんあるでしょう」

頭の中で繰り返され続ける、《L》のあの言葉。大切なこと。俺にとって、大切なこと。

答えはまだ出せない。《正解》もない。

だけど、生きている限りずっと考え続けてみようと思う。

また《L》に会える機会があったら──己の選んだ道を、胸を張って示せるように。

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